連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(二四)翻訳の問題 ── その二 『黄色い雨』

 問題 ── 次の文章を読んで、後に記す設問に答えなさい。

 この家はおそらく(   )倒壊する家の一軒になるだろう(おそらく、その時私はまだこの家の中にいるはずだ)。チャーノとラウロの家は倒れたし、フアン・フランシスコとアシンの家の思い出と壁は雑草と潅木に覆われている。そんな中、私の家は村でもいちばん古い家のひとつだが、まだ倒れずに建っている。しかし、いつまでももつはずがない。たぶん倒れはしないだろう。ひょっとすると、私と同じように絶望感に襲われながらも、最後まで踏ん張るかもしれない。その時は、村人が私を見捨てていったように、ほかの家からも見捨てられて、日毎に孤独感を深めてゆくことになるだろう。何年か後に、アンドレスがひょこり戻ってきて、自分の家族にアイニェーリェ村を見せてやるかもしれない。その時、彼の家は両親たちの戦いの記憶として、また私たちを忘れ去ったことへの沈黙の証人としてまだ建っていることだろう。
(フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』 木村榮一訳 ソニーマガジンズ)

 文中の(   )内に入ることばを次のふたつのうちから選びなさい。
 A 最初に
 B 最後に



 フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』(木村榮一訳 ソニーマガジンズ 二〇〇五年九月十日 初版第一刷発行)。この本についている帯には「柴田元幸氏絶賛!」の文句とともに「この小説を読むことで、あなたの世界は全てが変わってしまうだろう。」とあります。この作品についてはいずれ「読書案内」をするつもり ── ということは、むろん私はこれを「よい作品」であると思っているわけで、すでに私は自分の勤める書店のホームページに原稿を書いています ── ではあるんですが、ここでは前回につづいて「翻訳」の話です。

 この本を私はまず二〇〇五年九月十五日に読み終え、さらに十九日に再読を終えていました。それから、私は自分の勤める書店で、来訪したソニーマガジンズの営業担当者に、この本には三つの誤植(入力・変換ミス)のあることを告げ、翌日(九月二十九日)、次のように非常に簡単なメールを送りました。

 昨日はありがとうございました。
『黄色い雨』ですが、せっかくなので、誤植と思われる箇所をお伝えします。(もうとっくに指摘をしてきている読者がおられるとは思いますが)

 七七ページ 一三行め 「痛みが着ており」
 一三五ページ 一行め 「ついに住処となった」
                「終(つい)の」?
 一六四ページ 六行め 「最初に倒壊」
                「最後に倒壊」?

 以上です。


 それぞれの箇所を引用してみますが、

 まずは、

 しかし、古い建物、新しい建物、ずっと以前に見捨てられた建物、最近になって人が住まなくなった建物、どれもこれも雪のせいで傷みが着ており、錆を吹き、ネズミや蛇、小鳥の住処になっていた。
(フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』 木村榮一訳 ソニーマガジンズ)

 あっ、今度は私自身の間違いに気づいたんですが、私がメールで「痛み」と書いたのは、本文では「傷み」だったんですね。誤植を問題にした当の私自身がこのようなことでは非常にまずいですね。反省します。
 ともあれ、私が問題にしたのは、「傷みが着ており」は「傷みが来ており」の誤りだろうということだったんです。

 次は、

 そこが私にとってついに住処となった。
(同)

 ── は「そこが私にとって終の住処となった」の誤りだろうということだったわけです。

 最後が、ここでの冒頭に挙げた文章で、

 この家はおそらく最初に倒壊する家の一軒になるだろう(おそらく、その時私はまだこの家の中にいるはずだ)。チャーノとラウロの家は倒れたし、フアン・フランシスコとアシンの家の思い出と壁は雑草と潅木に覆われている。そんな中、私の家は村でもいちばん古い家のひとつだが、まだ倒れずに建っている。しかし、いつまでももつはずがない。たぶん倒れはしないだろう。ひょっとすると、私と同じように絶望感に襲われながらも、最後まで踏ん張るかもしれない。その時は、村人が私を見捨てていったように、ほかの家からも見捨てられて、日毎に孤独感を深めてゆくことになるだろう。何年か後に、アンドレスがひょこり戻ってきて、自分の家族にアイニェーリェ村を見せてやるかもしれない。その時、彼の家は両親たちの戦いの記憶として、また私たちを忘れ去ったことへの沈黙の証人としてまだ建っていることだろう。
(同)

 ── での最初の行の「最初に」が「最後に」の誤り(入力・変換ミス)だろうと思ったんです。

 それからしばらくして、ソニーマガジンズの営業担当者から店に電話がありまして、おおよそ次のような内容でした。

 ご指摘の三点について編集部で確認をいたしましたが、「傷みが着ており」と「ついに住処となった」の二点については、ご指摘の通りにこちらの変換ミスによる誤植でした。三点目の「最初に」ですが、これについては現在、翻訳者が原作者に照会中です。いましばらくお待ちください。

 驚きました。「翻訳者が原作者に照会中」というのは、つまり、「木村榮一(ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』などの翻訳者です)がフリオ・リャマサーレスに照会中」ということじゃないですか。なんという大事になっているのか、と思いました。
 これはまた次のような事情を示してもいるはずです。これは先の二点のような単純な変換ミスではなかった。原文通りに翻訳した結果が「最初に」だった。しかし、その「最初に」が文章の前後関係からして「最後に」である方が適当ではないかということを翻訳者自身があらためて感じた。それゆえの原作者への照会だ、ということです。

 そうして十月十八日付での、編集担当者郷雅之さん(後で知ったんですが、このひとは柴田元幸や大西巨人との仕事をしているひとだったんですね)からの返事を営業部経由のFAXで受け取りました。これは、『黄色い雨』の読者であれば、知っておくべきことでもあるはずだと思うので、一部をここに公開することにします。

 ……「最初に倒壊した家」が「最後」の誤りでは、とのご指摘ですが、本書訳者の木村榮一氏を介して、著者のリャマサーレスに問い合わせましたところ、「ご指摘はもっともですが、私としては〈あの時点以降、最初に倒壊する家〉のつもりで書きました。最後に残った家の中で最初に倒壊した家、という意味で書いたので、その点、ご精読いただいた感謝とともに、ご指摘の読者の方にお伝え下さい」と彼から返事がありましたので、ご報告させていただきます。ご了解いただければ幸いです。

 この後、『黄色い雨』について、ソニーマガジンズの営業担当者によれば、私の指摘した先の二点に関しては、以後版を改める際に修正する、これまでに刷った分に関しては正誤表を挿み込む、ということだったと記憶していますが、いまだに確認をしていません。

 さて、まだ話はつづきます。
 郷さんからの回答を受けて、私は彼にメールを送りました。そのなかで、こう書いています。

 それにしても、私がこの三点めについて不思議に思うのは、木村さんや郷さん、あるいはその他のスタッフの方々が作業を進めるなかでここに引っかからなかったということなのです。もし引っかかっていれば、出版後に読者からの指摘を受けてというのではなく、事前に作者に問い合わせることができたでしょう。もっとも、照会中であるとの報告をもらって、では原文が「最初に」なのだとわかったとき、この作品ならばそれもありうるかもしれないとは私も思ったのでした。「最初に」と語るのは作者ではなく、登場人物である語り手ですし、それは全体にああいう語りをする語り手だからです。
 しかし、作者からの回答を受けたいま、たとえば「最初に」を「次に」あるいは「次にも」と翻訳することは不可能でしょうか? これは、そうしてほしいということではなくて、翻訳の可能性の問題を単純にお訊きしたいだけなのですが。翻訳としてそれは誤りになるのかどうかです。なにか別の訳語を当てる可能性というのはないのでしょうか? 作者の意図はどうあれ、日本語として、あそこはどうしても誤解を生みそうな箇所だと思われるからです。私はスペイン語がわかりませんが、作者が自国の読者から同じ指摘を受けなかったのかどうかも気になります。しかし、たぶん受けなかったのでしょうね。

 郷さんからの返信にはこうありました。

『黄色い雨』の「最初に」のご指摘、よく分かりました。
 訳者の木村さんも、「あの箇所、より良き訳語をしっかり考えて見ます」とおっしゃっているので、今しばらくお待ちいただければと思います。

 ── と、実際にこういうことがあるわけです。

 そこで、私の考えているのはこういうことです。
 まず、『黄色い雨』の読者のどれだけが、私の指摘した三点に気がついたか、ということですね。それは、いったいどういう読みかたを(『黄色い雨』の読者ですら)しているのか? という疑問でもあります。(『黄色い雨』の読者ですら)そういうレヴェルでの読みかたしかできていないのか? ということです。
 さらに、それらに気づいた読者のどれだけが出版社にそのことを指摘したか、ということです。私はいいますが、気づいたなら、必ず指摘すべきです。誰かべつのひとが指摘するだろう、などと悠長なことを考えていては駄目です。なぜなら、自分の後にもこの本を読むはずのひとがいるだろうからです。そのひとたちのこと(それとともに、その作品のこと、その作者のこと)を、もっと考える必要があります。先のヴォネガット『母なる夜』(池澤夏樹訳)にしても、指摘しなければ、将来の読者も、その作品自体も、ヴォネガット自身も不幸じゃないですか。でしゃばりとか、僭越とか、そういうことじゃないんですよ。私が鬼の首を取ったようにはしゃいでいるように見えますか? 全然違います。
 もうひとつ、これも必ずいっておきたいんですが、この本の帯を書いた柴田元幸や、この本をいろいろな場所で推した「文芸評論家」たちはどうだったのか、ということです。
 出版前にその本のゲラを渡されたことのあるひとにはわかりますが、これはまだ校正中の文章であって、誤字・脱字等もあり得るという断わり書きのついているものがあるんですね。だから、断わり書きがない場合にも、そういう前提で読むということがあります。誤字・脱字等を見つけても、この後の校正によって修正されるはずだということで読むわけで、わざわざ編集者に告げたりしないんです。そういう事情はわかります。しかし、余計なお世話かもしれなくとも、やはり気づいたら、読んだひとは報告すべきだと思いますね。
 しかし、私が心配しているのは、たとえば、この『黄色い雨』の場合では柴田元幸ということになりますが、指摘するしない以前に気づいていなかったということがあるのかもしれない、ということです。この本をいろいろな場所で推した「文芸評論家」たちもです。

 ここに、ある作品を自分で選んで読むということと、依頼されて(仕事として)読むこととの差を考える余地があるのではないかと私は考えるんですね。
 たとえば、ある本の帯に署名入りで推薦の文句を書いているひとたち(作家・文芸評論家・その他有名人)は、それで報酬を受け取っていると思うんです。で、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、「この本を読んで、推薦文を書いてください」という依頼を受けるんでしょうか? 私の考えているのは、それで、作品が駄目だった場合、いったい彼らはどうするのか、ということなんです。これをいい換えると、彼らは推薦するために・つもりで・前提で読むのか、ということにもなります。それで、もちろん私は、推薦するために読んではいけない、と考えるわけです。読んだ作品が駄目ならば、仕事を断われ、ということです。それがどこまでできているのだろうか、と思うんですね。かなりの割合でできていないのではないか、と私は疑っているんですけれど。もし、これができているのだとすると、その推薦人の読み取りの力を疑わなくてはならないほどのものが多いと思っているんです(そうでなければ、彼らがいかに読者の読書レヴェルを低いところに考えているか、ということになりますね。馬鹿にするな、といいたい)。
 反対に、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、作品が不特定多数に推すべきほどのものだと感じるほどの読書をしたなら、誤植や誤訳なども見つけておいてほしいんですよ。見つけたなら、必ずすべてを編集者に伝えてほしいんです。それでこそ、出版後に読むことになる読者のためになるわけです。



 最後にもうひとつ。先に私は、

 驚きました。「翻訳者が原作者に照会中」というのは、つまり、「木村榮一(ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』などの翻訳者です)がフリオ・リャマサーレスに照会中」ということじゃないですか。なんという大事になっているのか、と思いました。

 といいました。たしかにあのとき私はその通りに驚いたので、そういったわけなんですが、しかし、そんな私のいいかたもよくないんですね。というのは、木村榮一さんがいかにすごいひとであろうが、読者としては、遠慮や卑下は余計であるばかりでなく、してはならないことだからです。作品の読みのためには、読者は作者や翻訳者と対等だと考えなくてはなりません。
(二〇〇七年九月)



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